鹿児島県中社研

鹿児島県の中学校社会科教員による自主団体のブログです。

   夜明けの桜島

2016年度鹿児島県中社研フィールドワークに参加して  鹿児島大学大学院2 年丸山翔太

1   はじめに

 

2016 年度のフィールドワークは宮崎県北部をめぐるものであった。私は教師という立場で はないものの、ご縁があって鹿児島県中学校社会教育研究会に入らせていただき、大学院生 という立場で今回のフィールドワークに参加させてもらった。私自身は宮崎県の出身なのだ が今まで宮崎県北部に訪れる機会が中々なかったため、どのような出会いが私を待っている のか期待を寄せながら、私を含むフィールドワーク参加者 5 名は鹿児島を出発した。

 

2   見学場所

(1) 美々津

鹿児島を出発して 3 時間、私たちは最初の目的地である美々津に到着した。この地は古く から海の交易の拠点として位置づけられ、江戸時代には高鍋藩の城付地に属す藩の重要な港 町として栄えた。現在は大正 12(1923)年の国鉄日豊本線開通や高度経済成長期における諸 諸産業の飛躍などの影響で小さな港町となっているが、美々津の風情ある街並み・港町特有 の潮の匂いに都城盆地出身の私は感動を感じずにはいられなかった。

 

○日向市歴史民俗資料館 江戸時代の廻船問屋「河内屋」の屋敷を修復して建てられた資料館である。この資料館には 2 つの棟がある。

1 つ目の棟が「河内屋」の屋敷を修復した資料館棟となっている。この棟では「河内屋」に伝わる商取引関係の道具・古文書・生活用品や 9 代高鍋藩主・秋月種任の三男である秋月 種樹が認めた掛軸などが展示されており、建物を含めて美々津商人「河内屋」の歴史を感じ させてくれる。そして、この棟の魅力の 1 つが 2 階にある。資料館の入り口付近の展示室の奥に隠れるようにしてある階段を登って 2 階へ向かう。この 2 階の奥の展示室にある窓を開 けると海を見渡すことができる。海からの潮風で涼みながら美々津の歴史を身体全体で感じ ることができた。

2 つ目の棟が「河内屋」伝来の民具や市内から収集された歴史資料を並べた土蔵風の管理 棟となっている。ここでは千石船模型と模型の下に並ぶ古文書に私は目を惹かれた。古文書 には様々なものを積み荷したことが記され「河内屋」が実際に商取引を行っていたことを裏 付けてくれており、この古文書と千石船模型が一緒に展示されることで「河内屋」という過 去の商人の日々の営みを肌で感じることができたからだ。なお、複写ではあるものの古文書 にどのような内容が書かれてあるのかを実際に手に取ってみることができるため、美々津に 赴く機会があった際はぜひ目を通していただきたい。

 

○「日本海軍発祥之地」の碑 美々津は、日向神話「神武東遷(東征)説神話お船出の地」として知られている。この神話は初代天皇である(神武天皇)が日向を発ち、大和を征服して橿原宮で即位するまでを記 した説話となっているのだが、この説話が基となって昭和 17(1942)年に建てられたのが「日 本海軍発祥之地」の碑である。「日本海軍発祥之地」の碑の「建立・復元の経緯と碑文の由来」 と題された看板には次のようなことが書かれてある。

 

日本海軍は、天皇が統帥された海軍でありました。このことから国が、神武天皇御親率 の水軍が、はじめて編制され、進発した美々津の地を「日本海軍発祥之地」と定め、紀元 二千六百年記念事業の一環として建立されました。碑文の文字は時の内閣総理大臣海軍大 将米内光政閣下の揮毫により、碑面に刻記されたのであります。この碑は、大東亜戦争の 終戦直後進駐米軍によって碑文が破壊されましたが、昭和 44 年に至り地元有志の強い要望 により、防衛庁海上自衛隊)などの協力を得て、現在のとおり復元されたのであります。

 

この看板をみれば、この碑が一体どのような碑なのかが分かるのだが、単なる説話が「皇 国史観」社会の中で政治的に利用され、史実化され、そして美々津という一地域の中で受容 されている様子を物語っている点でこの碑は非常に興味深い。この碑を素材にして戦中の日 本社会のあり方を美々津という一地域を事例に生徒が学べるのではないか。美々津以外にも このような事例は眠っているのではないか、眠っているとしたらこれらの事例をどう扱えば 生徒の学びをより深くしていけるのだろうか、そのようなことを考えながら、次の目的地で ある延岡へと車を走らせていった。

 

 
   

 

(↑  「日本海軍発祥之地」の碑、写真では上手く伝えられないが揮毫者の米内光政の達筆 ぶりに感心するばかりであった)

 

 

(2)延岡市

宮崎県第 3 の都市である延岡市、ここは宮崎の郷土料理の 1 つであり全国的にも有名なチ キン南蛮の発祥の地でもある。この地では内藤記念館と延岡城跡を見学させてもらった。

 

○内藤記念館 延岡城二ノ丸跡に建てられた博物館である。この博物館には古代から現代までの延岡の歴

史を伝える貴重な資料や能面・書・絵画などが展示されており、この博物館に来れば延岡の 歴史を大方知ることができるようになっている。この博物館の目玉の 1 つが内藤家伝来の能 面である。内藤家伝来の能面の特徴として、桃山時代末期から江戸時代初期にかけて「天下 一」の称号を受けた能面作家の焼印を持つ作品が含まれていることにある。江戸時代にはこ のような能面は大名家によって数多く収蔵されていたが、明治期に経済的な理由から多くの 旧大名家がこれらの能面を手放した事情を考慮すると、内藤家伝来の能面がまとまって残っ ているのは非常に貴重であるとされている。

なお、この記念館は昭和期においては結婚式場としても利用され、市民のなかでもご年配 の方々の多くがここで結婚式を挙げていたらしい。このようなストーリー性も「地域に根付 く記念館」としてこの記念館がもつ魅力の 1 つであろう。

 

延岡城

延岡藩主・高橋元種によって慶長 6~8(1601~1603)年にかけて築かれた城である。元種 は、最初松尾城(延岡市内松山町)を拠点としていたが、鉄砲の普及による戦法の変化に対 応するため、五ヶ瀬川と大瀬川に囲まれた丘陵にこの城を築いた。当時は県(あがた)城と 呼ばれ、2 つの河川を外堀とし、城内に内堀がつくられていた。城は、天守台、本丸、二ノ 丸、三ノ丸からなる本城(現在は城山公園となっている)と、藩主の居宅である西ノ丸(現 在は内藤記念館と亀井神社となっている)の二郭で構成され、門・櫓などが整備されている。 中でも二ノ丸にそびえる高さ 22m、総延長約 70mの石垣は一番下の隅石を外すと一気に崩れ、 一度に千人の敵を倒すことができるとの伝承から「千人殺し」と称されている。

なお、「千人殺し」の石垣の一番下の隅石は近代に入ってコンクリートで補強され外すこと ができないようになっているが、この逸話はあくまでも伝承であり、実際は外しても崩れる ことはないらしい。

この延岡城高橋元種以降、有馬家(直純・康純・清純)―三浦家(明敬)―牧野家(成 央・貞通)―内藤家(政樹・政陽・政脩・政韶・政和・政順・政義・政挙)と城主となる「御 家」が変わっている。島津家のように「1 つの城=1 家の城主」という見方で城は語れないこ とを改めて実感するとともに、城主となる「御家」が次々変わることに対して延岡城は何を 思っていたのだろうかと少々子どもじみた感想を抱きながら延岡城跡をあとにした。

 

 

 

 

(↑  千人殺し)

 
   

 

(↑  コンクリートで補強された「千人殺し」の隅石、これも延岡城の歴史の一部であると 思うと感慨深いものがある)

 

(3)  細島

2 日目は延岡を出発して細島を目指す。細島は 1 日目に訪れた美々津同様、古い歴史をも つ港町であり、赤江、油津と並ぶ日向国の代表的な港として知られていたらしい。特に江戸 時代は天領の港であったことから南九州の諸大名が参勤交代に利用し、瀬戸内や大阪方面と の交易でも栄えてた。このような地域の性格からくるものなのだろうか、細島は美々津とは 異なった雰囲気を醸し出しており、美々津を訪れたときに感じた感動とは異なる不思議さに も似たものを私は感じた。

 

○馬ケ背

2 日目の最初に訪れたのは、太平洋に突き出るように柱状節理の上に立つ馬ケ背であった。 柱状節理とは火山の噴火物や地下のマグマが火道や割目に貫入し、冷え固まったときできた 節理であり、代表的なものとして福井県の「東尋坊」が挙げられる。馬ケ背はその名の通り 馬の背中のような形をした地形となっており、その距離も非常に長かった(奥行きは 200m もあるらしい)。大自然が作り出す芸術にただただ驚かされるばかりであった。

 

 

 

 

○日向市細島みなと資料館 本資料館は本館・付属屋という棟と管理棟という棟からなっている。本館・付属屋棟は日向市指定文化財高鍋屋旅館及び付属屋」を改修した木造 3 階建ての棟である。「高鍋屋旅館 及び付属屋」は大正 10(1921)年に建築され、客室は 6 部屋あり、昭和 57(1982)年まで営 業していた。付属屋は平屋建て台所(釜屋)、厠、風呂場、脱衣所がある。1 階は旅館当主三 輪氏の居間と納戸などがあり、2 階と 3 階が客室がある。3 階に行くと、細島の港や街並みを 展望でき細島の歴史に思いを馳せることができる。この棟で私の目に留まったのが付属屋に ある風呂場と玄関に掲げられていた「高鍋館」の扁額である。

風呂場は全面タイル張りとなっており、風呂場というよりはシャワー室といった方が正し い。この風呂場をみたとき、私自身は非常に殺風景だと思ったのだが、旅館経営当時の人々 の感覚からしたらモダンな風呂場だったのかなと考えさせられた。

高鍋館」の扁額は「種樹書」という文言が入っており、この扁額は 9 代高鍋藩主・秋月 種任の三男である秋月種樹が書いたものであることが分かる。1 日目に訪れた日向市歴史民 俗資料館にも彼の認めた掛け軸が存在していることは先に述べた通りであるが、これらの事 実から彼の文化人としての一面を感じずにはいられない。彼を素材にして高鍋藩の文化史に ついて何か研究できないだろうか、そして文化史の研究を通して高鍋藩のもつ地域性に迫れ ないだろうか、そのようなことを考えさせてくれる扁額であった。

管理棟は日向市指定史跡「高鍋藩御仮屋跡」に建つ棟である。高鍋藩は 3 万石の外様大名 で、藩主秋月氏は参勤交代の際に「御用達」として指名した三輪家に本陣(御仮屋)となる 座敷を構えさせていた。この棟では主に当主である三輪家の由来やこの地域に関する資料が 展示されている。

 
   

 

(↑  日向市細島みなと資料館)

 

 

○日向妙国寺庭園

小さな滝・3 つの築山・池・池に浮かぶ中島・中島に架けられた橋から成り立っている借 景庭園であり、昭和 8(1933)年に国の名勝に指定されているらしい。素人目には岩が沢山 配置されているようにしかみえない庭園がなぜ国の名勝に指定されているのか気になるとこ ろであるが、このような問いを手掛りとして地域の歴史や魅力を生徒に発信し、地域のあり 方について考えさせていくことが社会科教員が地域に果たせる役割なのかなと思うところで あった。

 

(4)  若山牧水生家 私たちは次の目的地である美郷町に向かう途中、若山牧水の生家に立ち寄った。 若山牧水(明治 18(1885)年~昭和 3(1928)年)は明治後期から大正期に活躍した歌人である。日本各地を旅し各地で歌を残したことから「旅の歌人」、酒好きであり酒に関する歌 を残したことから「酒の歌人」、他に「恋の歌人」とも称される。宮崎県では非常に有名な郷 土の人として教員採用試験でも出てくる人物であるが、彼の生家が現在の宮崎県東郷町にあ る。訪れてみると、坪谷川という川が生家の前面に流れる静かな山あいに建てられていた。 若山家は牧水の祖父である健海が医者であったため、生家にも診察室が設けられていた。患 者の診察を行う祖父の姿を少年時代にみながら育った牧水の生活経験は、彼の作風に影響を 与えているのだろうか、そのようなことをふと頭をよぎった。

 

(5) 美郷町

2 日目の最後の目的地は美郷町だ。昔、百済の国で大乱が起り、百済の禎嘉王とその子の 福智王が、乱を避けて、女官・従者と共に日本へ渡り日向国に上陸、その後禎嘉王と福智王 は日向に住むようになった。これがいわゆる「日向の百済王伝説」であるが、この伝説に登 場する禎嘉王が居を構えたのがこの美郷町であるとされている。このような伝説を 1 つの観 光資源に「百済の里」美郷町としてアピールしている。私は歴史学を専攻しているため、「日 向の百済王伝説」がどのような歴史的過程を経て受容されていくのか、あるいは伝説の信憑 性に関心が向くが、人文地理学や経済学を専攻している者からみると「百済の里」として美 郷町が自身をアピールする地方自治体の戦略に関心が向くのだろうか。少々気になるところ である。

 

○神門神社・西の正倉院 寛文元(1661)年に本殿が建立されたといわれる神社であり、本殿は平成 12(2000)年に国の重要文化財に指定されている。本殿は一見すると装飾は少なく簡素であるものの、中世的な技法や要素を残しながら、近世の建築手法も備えたところに特徴があり、九州南部にお ける本殿建築の発展を窺い知れる点が国の指定を受けた大きな理由であるらしい。しかしそ れにもまして重要なのが、この神社に納められている宝物である。この神社には 33 面の銅鏡が納められている。内訳を説明すると、古墳時代のもの 4 面、奈良時代の唐式鏡が 17 面、藤原時代のもの 3 面、室町時代以降のもの 9 面となっている。また、これらの中には正倉院の 御物、長屋王邸出土鏡、三重県八代神社、千葉県香取神宮などと同一の鋳型から作られたも のも存在する。いずれも倣製鏡ではあるものの、これほどまとまった数の銅鏡が 1 つの神社に伝えられていることは全国でも珍しいらしく、またこの鏡を含む全国的な分布状況には何 らかの特別な事情があることが推測され、古代の文化を考える上で重要な手掛りを与えてく れる貴重な品とされている。

なお、神門神社には他にも貴重な品々が伝わっているのだが、それらは現在神門神社のす ぐ近くに建てられている西の正倉院で収蔵・展示されている。西の正倉院自体は平成に入っ てから建てられたものであるが、奈良正倉院を実物大で細部まで再現して建てられており、 奈良県に行かずとも身近に正倉院を楽しめる。ただ、なぜ正倉院を細部まで模した建物を建 てる必要があったのか私は気になった。おそらく「町おこし」の意味合いがあったのだろう がこのような疑問に迫ることができれば、西の正倉院を素材にして地方自治のあり方に迫る 授業が展開できるのではないだろうか。このような思いを具体化していくためにはさらなる 教材研究が必要であるが、いつかそのような授業を行ってみたいものだ。

 
   

 

(↑ 神門神社)

(↑  西の正倉院、私は幼い頃に訪れていたが 10 年以上の時を経て改めてみたとき、「観光 客」の目線以外に「教える」側の目線でこの建物を眺めていた自分に少々驚いた)

 フィールドワークの最後は神門神社・西の正倉院近くの温泉で体を癒し、鹿児島へと帰っ た。

 

3    おわりに

美々津・延岡・細島・美郷をめぐる今回のフィールドワークで宮崎の魅力を新たに発見す ることができた。このフィールドワークで感じた疑問や思いを大切にしながら、今回の学び を将来地域の担い手となる未来ある子どもたちに「教育」という形で還元していけるように 今後邁進していきたい。

 

末筆ながら、今回のフィールドワークにあたり企画・実行してくださった県中社研事務局 の方々、現地で解説をしてくださった学芸員・ガイドの方々に厚くお礼申し上げます。あり がとうございました。